広報が選ぶ「思い出の1台」 いすゞ自動車 広報部ブランド戦略企画グループ 中尾博

JAMAブログを監修する各メーカー広報担当者が、クルマやバイクを好きになった、もしくは自動車業界に進もうと思ったきっかけとなった、あるいは開発や発表・発売など業務で携わった「思い出の1台」をピックアップして熱く語ります。会員14社を50音順にご紹介するシリーズ第1回は、いすゞ自動車・中尾博さんのAsso di Fiori(アッソ・ディ・フィオーリ:写真右)です。イタリア語で「(トランプの札である)クラブのエース」を意味します。聞きなれない車名ですが、かつて人気を博したいすゞのスペシャリティカー「ピアッツァ」(写真左)のコンセプトモデルです。学生時代から憧れ、同社に入社するきっかけにもなった車とか。そしてこの車との出会いが、その後の会社人生にも少なからず影響したとのことです。

―この車との馴れ初めは

Asso di Fioriが発表されたのは、私が高校生の頃です。その先進性や、イタリアの著名デザイナー、ジウジアーロ氏が手がけたカッコよさに憧れて美大を目指し、カーデザイナーを志しました。その後、初代ピアッツァがデビューしたのは1981年で、私が大学生の時です。もちろんその後の進路も自動車業界を選ぶこととなりました。そういう意味では私の人生を決めたといっても過言ではないでしょう。

いすゞ自動車の中尾博さん

―なぜ市販モデルではなく、コンセプトモデルに思い出があるのですか?

ご存じの通り、90年代後半のいすゞは経営悪化で乗用車の生産・開発を徐々に縮小し、2002年には乗用車ビジネスから撤退しました。社内に沈滞ムードが広まる中、当時の井田義則社長が「チャレンジ予算制度」を設け、社内の活性化につながる活動を公募したんです。その時、デザインセンターの倉庫の片隅で埃をかぶっていたAsso di Fioriの事を思い出し、これを甦らせようと真っ先に手を挙げました。賛同するメンバーは50人ほどに達し、部品メーカーやタイヤメーカーなども協力してくれました。

作業前の光景。レストアには多くの有志が集まった(右から7人目が中尾さん)

―レストアは順調でしたか

2000年初頭に着手し2001年の半ばまでの1年半もの間、ほぼ休みを返上し、部活の様な形で取り組み、ようやくレストアが完了しました。一番大変だったのは、インパネ部分で、持ち出されたまま紛失していたため、当時のデザインスケッチや企画書・仕様書、広報資料、写真などを参考にして再現させました。

最も苦労したというインパネ再現作業

―甦ったAssoはその後どうなりましたか。

そこからまた問題が発生しましてね。せっかく修復したのに、社内には展示するスペースもなかった。そこでトヨタ博物館さんにお願いして、預かってもらったんですよ、なんと13年間も。レストアした有志だけではなく、多くの同僚が「歴史ある会社なのに博物館もないのか」「ミュージアムがあったらなぁ」といった話で盛り上がりました。

―ひょっとして、現在の「いすゞプラザ」はこのレストアがきっかけだったのですか

Assoのレストアがうまくいったことで、会社の歴史を彩る多くの旧車のレストア活動につながりました。創立80周年に際して、博物館の建設が検討されることとなり、あわせて再生したいすゞ車や創業からの歴史を展示することの検討も始まりました。それまで自動車のデザインに携わってきましたが、こんな縁でいすゞプラザの設立プロジェクトのメンバーとして関わり、完成後の2017年から20年までいすゞプラザに勤務していました。

2015年のノスタルジック2daysに展示されたAsso di Fiori

デザイン企画・立案から担当したいすゞプラザにて

〈思い出の1台〉

Asso di Fiori(アッソ・ディ・フィオリ)。イタルデザインのジョルジェット・ジウジアーロ氏が手掛けた「ピアッツァ」のプロトタイプは、1979年3月のジュネーブショーで発表された。トランプのA(エース)を表す「Asso di~」はジウジアーロデザインのシリーズ名で、Fioriはシリーズ最後のモデル。低いノーズとウエッジシェイプ、空気抵抗を抑えるフラッシュサーフェス化などにより、45年の歳月を感じさせない造形美を醸し出す。2001年のレストア後は一度トヨタ博物館で保管された後、現在はいすゞ自動車で管理。いすゞプラザでも期間限定で展示されていた。

いすゞプラザに展示されていたAsso di Fiori をチェックする中尾さん

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