- 2025/09/17
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広報が選ぶ思い出の一台⑪「パジェロ」(三菱自動車)
JAMAブログを監修する各メーカー広報担当者が、クルマやバイクを好きになった、もしくは自動車業界に進もうと思ったきっかけとなった、あるいは業務で携わった「思い出の1台」をピックアップして熱く語ります。
第11回は、三菱自動車の理事で、広報部チーフエキスパートの増岡浩さんです。思い出の1台は、世界で最も過酷といわれる「パリ・ダカールラリー(パリダカ/現・ダカールラリー)」に1987年から自らドライバーとして搭乗していた「パジェロ」です。
2002年と03年には日本人初となるパリダカ2連覇を達成、スポーツ振興に関わり、文部科学省よりより、顕著な功績を残した選手や指導者に授与される「スポーツ功労者顕彰」を受彰。2022年から「チーム三菱ラリーアート」の総監督も務め、8月にタイで開催された「アジアクロスカントリーラリー」に「トライトン」で参戦、3年ぶり2度目の総合優勝を果たしました。
―思い出の1台との出会いは
「実家は材木店で、よく父親に山へクルマで連れて行ってもらった影響で幼少期からクルマに興味を持ち、19歳からモータースポーツに携わって、国内のオフロードレースにプライベートで参加していました。22歳の時に初代パジェロが発売され、その際に乗らないかとオファーがありました。パジェロと苦楽を共にして、40年以上が経ちます。その意味では、私にとって兄弟みたいな存在で、ずっと一緒に育ててもらい、世界中のレースに参加して戦ってきたパートナーです。クルマの使い勝手をレースで感じて、それを市販車(の開発など)にフィードバックしています」
―パジェロのパリダカ参戦について教えてください
「三菱自動車としては、オフロードレースの頂点であるパリダカに1983年から参戦して、1年目は市販車無改造クラスで優勝、2年目は市販車改造クラスで優勝、85年には日本車初の快挙となる総合優勝を勝ち取りました。私がパリダカに参加したのは87年で、当時は選手として、三菱自動車の看板を背負っており、勝つことしか考えていませんでした。出場ごとに、走行したクルマを日本に持ち帰り、どこが痛んでいるか、どこが摩耗しているかの検証を重ね、初参戦から15年かかってやっと優勝できました。参戦を重ね、クルマづくりに対するこだわりが強くなりました。国内外のライバルメーカーが多くいる中で、やるからには絶対勝つという強い思いを持って取り組み、勝ち続けるために毎年、クルマも進化してきました」
―モータースポーツ活動で得た知見はクルマの開発などにも生かされていますか
「ラリーは例えば、アフリカとかオーストラリアとか〝極地〟へ行って確実に帰って来なければいけません。そのためには耐久性や信頼性がクルマに求められます。軽くて丈夫なクルマをつくる際、材質を代えたり、材料を薄くしたりするなどベストな所はここだと分かってきます。また、ラリーはサーキットで行うレースとは違い、一般道に近い道を走ることもあります。ありとあらゆる厳しい環境下で速く走れるクルマをつくるという点では、これまで三菱自動車の〝強いクルマづくり〟のお役に立ててこられたと思っています。今、私は車両開発の初期・中期、完成間近、それぞれの段階で総合評価も行い、技術面でアドバイスし、お客さまに提供するクルマを見極める仕事にも携わっています。社内でテストドライバーの教育も手掛けており、私の運転技術を若手社員に教えています。1年間かけて6人に教える活動で、15年続けており、今では彼らが開発の中枢を担っています」
―国内では、全国各地で開催する四輪駆動車の登坂体験イベントにドライバーとして参加、クルマの魅力を訴求されています
「販売店やキャンプ場などで四駆をお客さまに体感いただくイベントとして、24年には参加者が延べ20万人を突破しました。パジェロはいわゆる『RV(レクリエーショナル・ビークル)ブーム』の火付け役でしたが、天候や路面などを問わずに安全に楽しく家族でドライブできるという四駆の魅力を、私が得てきた経験から今後もさらに多くの人に伝えていくつもりです」
〈思い出の1台〉
パジェロは国内の四輪駆動車の代名詞とされ、1982年に初代が登場、4代目まで生産・販売されていました。特に90年代は「RVブーム」を背景に絶大な人気を集めましたが、2019年に国内で販売を終了しました。パリダカへ参戦、優勝など好成績を残したため、欧州やアフリカ、中東などでも知名度が高かったことでも知られています。派生車種として、「パジェロミニ」や「パジェロジュニア」といった軽自動車や小型車なども一時展開されていました。
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