自動車会社 その社名の由来と歴史② 二輪車メーカー編

いま大変革期を迎えている自動車業界。じつはその創業期も、大きな時代の変化に合わせた「転身」などがスタートになったケースが少なくありません。自動車会社として歩み始めるまでの各社の創業時や社名の由来などを振り返ります。2回目の今回は「二輪車メーカー」編です。

〈カワサキモータース〉

親会社の川崎重工業は1878年、創業者の川崎正蔵氏が西洋型船の建造を目的に設立した「川崎築地造船所」が起源です。1918年に兵庫工場に飛行機科を新設し、航空機の製造に着手し、同年にはトラックの生産も始めました。19年に船舶部を分離して「川崎汽船」を、28年には「川崎車輛」を設立しました。航空機部門は37年に「川崎航空機工業」となります。39年に川崎重工業に社名を変更し、69年に陸海空に事業を展開する総合重工業を目指し、川崎重工業と川崎車輛、川崎航空機工業の3社が合併しました。

二輪車用エンジンの1号機として発売した「KB-1」

二輪車事業は53年に二輪車用小型エンジン「KB-1」を発売したのが始まりです。当初はエンジン製造にとどまっていましたが、60年に二輪車の一貫生産を開始しました。64年には戦前から続く名門である目黒製作所を吸収し、66年には「650-W1」「A1サムライ」でアメリカ市場へ進出。そして、72年に歴史的名車である「カワサキ900スーパー4(Z1)」を発表したことで、大型二輪車メーカーとしての地位を確立しました。2021年10月には「カワサキモータース」として川崎重工業から分社独立し、世界中に多くのモーターサイクルや水上オートバイ、オフロード四輪車などを世に送り出しています。

米国市場開拓に大きな貢献を果たした「A1サムライ」

〈スズキ〉

スズキは、1909年に鈴木道雄氏が「鈴木式織機製作所」を創業し、20年に「鈴木式織機株式会社」として法人化しました。第二次世界大戦後の52年に自転車用補助エンジン「パワーフリー号」を発売して輸送事業に参入し、53年には「ダイヤモンドフリー号」を発売、54年に「鈴木自動車工業」に社名を変更しました。55年には日本初の量産軽自動車「スズライト」を発売して自動車事業に参入。59年には125ccクラスでは世界初の2気筒2サイクル車「コレダセルツインSB」を発売します。

スズキ発展の基礎となった「パワーフリー号」

61年には軽四輪トラックの「スズライトキャリイFB」の販売を開始しました。62年には英国マン島TTレースの50cc部門で優勝を果たしました。65年には船外機部門に進出し「D55」の販売を開始したほか、スズキ初の小型乗用車「フロンテ800」を発売。70年には軽四輪駆動車「ジムニー」が誕生しました。鈴木自動車工業が現在の「スズキ」に社名変更したのは、90年10月のことです。

「スズライト」からスズキの軽の歴史は始まった

〈ホンダ〉

1946年に本田宗一郎氏が設立した「本田技術研究所」を母体に、48年に「本田技研工業」が誕生しました。47年から初のオリジナル製品となる「A型」を販売、49年には「C型」、そして本格的オートバイとなる「ドリームD型」の生産・販売を開始します。51年には初めての4ストロークエンジンである「ドリームE型」を発売。52年に「白いタンクに赤いエンジン」の斬新なデザインの「カブ号F型」を世に送り出しました。

オイルが運転者にかからないタンクのレイアウトが特徴の「カブF型」

59年ロサンゼルスの郊外にアメリカン・ホンダ・モーターが設立され、 スーパーカブがもたらした新しいライフスタイルにアメリカの人々は魅了され、たちまち爆発的ヒットとなりました。 本田の「苦しい時だからこそ夢が必要」との思いから54年には世界最高峰といわれていたマン島TTレースへの出場を宣言、59年に初参戦しメーカーチーム賞を獲得、61年にはついに、125cc・250ccの両クラスで1位から5位を独占し、タイムも新記録を樹立しました。

ロードレース世界選手権(WGP) マン島T.T.レース 参戦のために開発した「RC142」

〈ヤマハ発動機〉

ヤマハ発動機の母体は、日本楽器製造(現 ヤマハ株式会社)です。1887年、浜松市で山葉寅楠氏が一台のオルガンを修理したことをきっかけに、国産オルガンの製作を始めました。山葉氏は10年後、日本楽器製造を設立し初代社長に就任します。その後4代目社長の川上源一氏が1953年11月に幹部社員に「オートバイのエンジンを試作せよ」と極秘で伝え、55年2月に静岡県浜名郡浜北町(現 浜松市)に設立した浜北工場でヤマハモーターサイクルの第1号「YA-1」が完成、出荷を開始しました。同年7月1日にオートバイ製造部門を日本楽器から分離独立させ「ヤマハ発動機株式会社」を設立し、その10日後には早くも「第3回富士登山レース」の125ccクラスで優勝を果たします。

開発開始2ヵ月で「YA-1」の試作1号機を完成させた技術者陣

56年には「YA-1」の上位機種となる2号機「YC1」を発売。57年には「日本人のために作った250cc」を実現したオリジナリティある「YD1」の販売を開始し、58年には国際レースに参戦します。59年に国産初の本格的スポーツモデル「YDS1」を発売、静岡県浜名郡浜北町(現 浜松市)に、ヤマハ発動機と日本楽器の研究開発機関を統合するかたちでヤマハ技術研究所を設立し、天竜テストコースも開設しました。60年には船外機の第1号となる「P-7」を発売、その後のマリン事業発展につながる一歩となりました。 バイクや楽器、音響製品などでYAMAHAのロゴとともに表示されるマークは、楽器を調律する際の音叉(おんさ)に由来しています。3つの音叉を重ねた絵柄は、「技術」「製造」「販売」の3部門の強い協力体制を意味しています。

国産初の本格的スポーツ車「YDS1」

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